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バリトン堀内康雄の「 オペラ珍道中 」 (P3)



NO.10 “仮面舞踏会の告白” 
(2002年8月)

本日8月1日から、新国立劇場中劇場での「愛の妙薬」の稽古が始まりました。
96年スイスのイタリア国境の街でこのオペラに出演予定でしたが、公演自体が立ち消えとなり、
“キレる”関係者の傍らで、ガックリ肩を落とした思い出があります。今月末、遠のいていたベルコーレ役デビューがようやく実現しそうです。
オペラ・ブッファ練習のさなか、珍道中に「仮面舞踏会」の悲劇を書くのは、これまた難儀でありますが。。。

・・・ボストン知事リッカルドは、秘書レナートの妻アメーリアに密かに心を寄せている。
レナートは、それとも知らずリッカルド暗殺を目論む一味から彼を守ろうと懸命である。

リッカルドは黒人占い師ウルリカを訪ねる。密かにリッカルドを慕うアメーリアが先客として現れる。
リッカルドは彼女が占ってもらっている事に驚き、「深夜、処刑場の草を摘むように」という忠告を物陰から盗み聞きする。
いっぽう彼は漁師姿に身を偽って「今度の航海は無事だろうか?」と訊ねるが、「今日最初に握手する人に殺される」と予言される。
そこにリッカルドの身を案じたレナートが到着する。
すぐさまリッカルドは、この腹心の秘書と握手を交わし、予言が戯言であると一笑する。

忠告に従ってアメーリアが深夜の処刑場で草を摘んでいると、リッカルドが現れ、二人の間に次第に情熱的な炎が燃えさかってゆく。
突如レナートが現れ、暗殺団が迫っている事を知らせ、危機一髪リッカルドを去らせる。
レナートは剣を抜き、ヴェールで顔を隠した夫人を暗殺団から守ろうとするが、夫人がアメーリアであったことを知り愕然とする。
レナートは、アメーリアの不義とリッカルドの裏切りに激昂し自ら暗殺団に加わる。

知事邸での盛大な仮面舞踏会の折、レナートはリッカルドを刺し殺す。リッカルドはその臨終に、
用意していたイギリスへの昇進辞令をレナートへ手渡し、アメーリアが潔白であった事を誓うとともに、
叛徒全員に特赦を与える。レナートは深い後悔で茫然とする。・・・



1999年・2001年と新国立劇場のプロダクション(初演・再演)に出演しましたが、とりわけ初演の舞台が思い出深いです。
アルベルト・クピード氏のリッカルド、マリア・グレギーナさんのアメーリアという圧倒的な超声量の只中で、夏風邪をこじらせつつ
四苦八苦しながら立ち向かわなければならなかったのは、大変しんどかったです。(あれ以来、エアコンつけっ放しで寝るのを止めました。
それからアイスクリームのバカ食いも・・・アイスクリームと言えば、ローマのパラッツォ・フレッド店のジェラートは本当に美味しかった〜。
希望に応じてパンナをごっそりのっけてくれるのが有難い。しばらく行ってないけど、まだお店ありますか?)

「3日練習を休んだら筋肉が応えなくなるぞ。」「鼻腔の響きだけじゃ、不十分なんだ。」

等々、クピード氏には随分と様々なアドヴァイスを頂戴しました。そう言えばバレエの世界でも、“稽古を1日休むと自分に判り、
2日休むと相手に判り、3日休むとお客に判る”と言われていると聞きました(声学の場合、バレエ並に喉を酷使する訳にはいきませんが)。
また発声については(故)ニーノ・スカットリーニ先生の教え(クピード氏も教えを受けた事があったそうです。)を随分と忘れてしまっていたと
反省させられました。

いっぽうグレギーナさんとは95年ローマ歌劇場での「マクベス」以来の稽古となりました。
(あの時はマクベス役のレオ・ヌッチ氏が来るまで、何度か彼女と稽古したものです。ただし公演は彼女と一緒ではありませんでしたが。)
ローマの時以上に頑強な声になられたというか、幅広になられたというか、スゴイですね。
2幕登場前の下手袖で「こんなに緊張するのは、あなたと一緒に歌わなきゃならないからですよ。」と言うと、緊張をほぐしてくれようとしたのか
僕の手をギュ〜ギュ〜と暫くの間、握り締められました。(今度出来たら、足裏マッサージして欲しいなァ ←コリャまた失礼致しました)

彼女のお強い性格は世界中で有名で、共演はチョッと怖いものを感じてましたが、
思いがけず温かいお人柄に触れることが出来たのは嬉しかったです。


舞台上では、書斎の場面あたりから劇的に一段と重苦しくなり、正に客席と一体となって作り上げられていく緊張感が、たまらなく好きです。
全てが、ヴェルディの世界に飲み込まれる瞬間とでも言えましょうか。
アルベルト・ファッシーニ氏の演出は極めて伝統的で、オーソドックスな動きを知る事が出来、今後レナート役を演じる上での下敷きとなりそうです。
またリッカルド役で世界を席捲した市原多朗氏と2年とも共演し、音楽的にも演技的にも大変お世話になった事を付記致します。
氏が世界屈指のキャリアと実力を誇るテノール歌手でありながら、皆から慕われるお人柄なのは“嬉しい意外性”とでも言えましょうか。
それに甘えて、いつも御馳走になっている自分を反省しております。

2002年8月吉日


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NO.11 “スペインの時:コシ・ファン・トゥッテと真珠採り” 
(2002年9月)

診断結果:右下腿ひ腹筋挫傷(14日間の治療を要し局所は10日間の安静が必要)。

8月6日「愛の妙薬」の稽古中、右足太腿の肉離れをおこし、歩行困難により無念にも出演不可能となってしまいました。
関係者の方々に、多大な御迷惑をお掛けしました。また僕が出演するという事でチケットをご購入下さっていたお客様に、
このページを借りて深くお詫び申し上げます。

先月はたくさんの励ましのメールを頂戴しました。心底ありがたく拝見しました。改めて御礼を申し上げます。
これでベルコーレ役はスイス・日本と2度の出演機会を全て逃した事になりました。僕にはこの役はタブーなのでしょうか?

大演出家ウーゴ・デ・アナ氏との仕事を完結出来なかった事も残念です。恐らく氏とも縁が無いのでしょう。
そういえば96年ローマ歌劇場での氏演出の「イリス」公演(キョート役)のオファーがありましたが、
僕は同時期に公演のあるビルバオでの「真珠採り」の契約遵守にこだわり、
何としてでも「イリス」をやらせようとした当時の音楽事務所と衝突した憶えがあります。

氏とは将来、また何らかの形で巡り会う事もあるのでしょうが、ローマ・東京と同じように
仕事は御一緒しないのではないかと・・マーフィーの法則っぽいですが、これが人生のメカニズムじゃないかと思います。
まァ、また良い事が巡って来ることを今は願うしかありません。

さて9日からはブダペストで「マクベス」の稽古が始まります。
ヘニング・ブロックハウス氏演出の遮幕と映像を駆使した「マクベス」は、既に95年ローマ歌劇場で2回主演しましたが、
今回はブダペストでの再演です。
あの街には大学卒業時、慶應ワグネル男声合唱団のヨーロッパ演奏旅行に同行して、リスト音楽院ホールで
畑中良輔先生の指揮、三浦洋一氏のピアノで“夕星の歌”(合唱編曲版)のソロを歌ったアマチュア時代の思い出があります。
あれから15年が経ちましたから、おそらく街のムードもすっかり様変わりしている事でしょう。


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今月は、スペインでのオペラ出演の思い出話です。スペインでは2つのコンクール優勝絡みで、
94年からほぼ毎年のようにコンサートかオペラに出演して来ました(特にバスクとナヴァラ地方)。
それぞれに思い出深く一言で語り尽くせませんが、大らかなスペイン人達の中で伸び伸びと公演をさせてもらって、
“ミ トローヴォ ベーネ”(編集注・私はとっても居心地が良い、といった意味です)といった感覚で仕事をする事が出来たのが
大いに勉強になった気がします。そんな思い出の中から、2つの話をかいつまんで書いてみます。

「コシ・ファン・トゥッテ」は、94年のフリアン・ガヤッレ国際コンクール優勝のご褒美として、
パンプローナ市の翌年の公演(グリエルモ役)に招かれたものでした。


・・・・老哲学者ドン・アルフォンソを相手に女の貞節についてナポリの青年士官フェッランドとグリエルモが激論。
彼らの恋人フィオルディリージとドラベッラ姉妹の貞節を試す賭けをする事となる。
アルバニア貴族に変装した彼らは、ドン・アルフォンソの演出の下、まんまと姉妹を口説き、とうとう結婚に応じさせる。
最終的に男達は「コシ・ファン・トゥッテ(女は皆こうしたもの)」と憤慨しつつも諦め、
姉妹は騙された事を知って怒るが、自分たちの素早い心変わりを深く恥じる。
ドン・アルフォンソが仕切りなおし、恋人達はまた元の通り愛と喜びに固く結ばれる・・・・

と、ストーリーの方は人によってはアホ臭いとか、いやいやこれぞ恋愛の真実だとか反応は様々だと思います。
しかしモーツァルトの音楽が、陳腐な言い方ですが正に極上で、これほど美しい音楽を通じて恋愛感情の機微を投げかけられると、
二組のカップルのやりとりに、なぜか自分の経験して来た“それ”を投影してしまう訳です。
(と言っても、奥手に生きて来た僕には本当のところは分からないャ。)

通常は、台本通りフェッランドとグリエルモは、青年士官として登場し、ドン・アルフォンソとの賭けが始まってから、
異文化の衣装を身に付けるものですが、パンプローナの演出家は何を血迷ったか、最初ヤク中のヒッピー姿で登場し、
フォーマルの背広姿に変装?して恋人たちとのジョーコに臨む演出を試みました。
そうなるとフィナーレで、市川猿之助なみの衣装換え(フォーマルからヒッピーへ逆戻り)を舞台袖裏でやらなければならなくなり、
フェッランド役のホァン・ルーケ氏と共に猛烈に抗議したものです。
最終的には、衣装換えスタッフをそれぞれ一人つけるという天才的な対策によって、猿之助を決行しようという事になりました。

衣装換えは、毎度パニック状態(事実、1分ちょっとで着替えを完了しなければなりません)。
僕の猿之助要員は、17KG痩せてすっかり変身したカテリーナでした。
大慌てで着替えようとしたあまり、彼女の目前でふルちン状態になりそうになったのが恥ずかしかったですョ。
グルッと後ろを向けて身をかわしたものの、尻の露出は免れませんでした(嗚呼、恥ずかしい哉)。


彼女はその事には触れずに、僕に胸毛が無い事を笑って取り繕ってくれましたが(一般的に西洋男は毛深いですから)。。。
劇場側は公演の後、この因縁のフォーマル背広をプレゼントしてくれて、たいそう重宝して着ていました。
が、最近ズボンがきつくなり、思い出と共に洋服箪笥の奥に仕舞いこんであります。


さて「真珠採り」は、先のガヤッレ国際コンクール1ヵ月後のビルバオ国際コンクール優勝直後に、
ビルバオ・オペラABAOの監督から出演の打診をされました。
こんな簡単に仕事の依頼がくるものなんだなぁ〜って人生ナメナメ状態でした。
(そうは問屋が卸さないのは、その後痛いほどよく分かりました)


・・・・セイロン島の真珠採りの頭領ズルガは、かつてレイラをめぐる恋敵でもあった幼なじみのナディールと再会し、
過去を水に流し、無二の親友である事を確認し喜び合う。
高僧がヴェールで顔を覆った尼僧を従えて登場し、漁の安全祈願のしきたりから彼女に純潔と祈祷を誓わせる。
ナディールは、その祈祷の声の主がレイラである事に気づき、尼僧に近づく。
ナディールへの恋を忘れていなかったレイラも戒律を破り、二人はしばし愛に時を忘れる。
それを知ったズルガは、二人に死刑を宣告する。

嵐が過ぎ去ると共に落ち着きを取り戻したズルガは、嫉妬にかられて死刑宣告を決断したことに苦悩する。
レイラは、自分の真珠の首飾りを母親に届けてくれるようにズルガに懇願する。
それが、かつて死に瀕していた自分を救ってくれた女性に、ズルガ自身が捧げた首飾りなのに驚き、
恩返しに自分が身代わりとなって二人を助ける決意をする。
死刑執行間際にセイロンの村に火を放ち、レイラとナディールを逃がした後、ひとりで護衛たちの剣に立ち向かうが致命傷を負う。
レイラへの恋情を秘めてきたズルガは“レイラ、君を愛していた・・”と呟きながら、
ナディールとレイラの逃亡の無事を祈りつつ息絶える・・・


ナディール役がラモン・ヴァルガス氏、レイラ役がマリア・バーヨさんというキャスト決定で、ズルガ役を歌って欲しいとの事。
夢のような話で、もちろんすぐさまOKしました。しかし14ヵ月後の公演に両者は現れず、
公演の魅力が激減しましたが、レイラ役に決まった“バスク地方の歌姫”アイノア・アルテタさんが大変な人気で、
“我らがアイノアを観に行こう公演”に鑑賞モードが一変。アプラウゾ(拍手)を全部彼女に持って行かれてしまいました。

ズルガが死ぬ幕切れに、涙チョチョ切れの男性客もいたそうですが、彼女の異常人気の前に僕は成す術も無かった感じでした。
打ち上げではハモン・イベリコ(スペイン生ハム:美味いですが、イタリアのものより少し豚豚しています。)や
ココチャ(青身魚の一種)の頬肉の煮込みとパエリャを誰よりも食い捲くり。大変おいしゅうございました。

上演の機会がそう多くないオペラなので、ビルバオでの全3公演が僕にとって最初で最後になりかねませんが、
いつかまた、このビゼーの美しい抒情的な音楽を浴びながら舞台に立てる瞬間に巡り会いたいものです。

2002年9月吉日


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NO.12 “ブダペスト物語/9月6日〜10月1日” 
(2002年10月)

今月は、ハンガリー国立歌劇場での「マクベス」主演日記、題して“ブダペスト物語”であります。


【9月6日・7日】荷造り。以前は荷造りだけで大仕事だったが、だいぶ旅慣れたのと「荷物リスト」の雛形をチェックすれば、
どこに行くのも大体一〜二日で準備OK。(とはいえ、全面的に家内のパッキング技術に依存している状態。。。)

●忘れちゃまずいもの:パスポート・航空券及び領収書・クレジットカード&バンコマート・現金・
旅行傷害保険カード・携帯電話・手帳・サイン済み出演契約書・リコルディ版「マクベス」楽譜・
ポータサウンド・万が一のオーディション用の楽譜・辞書・ガイドブック・
ノートパソコン・デジカメ・ゲームボーイ・CD&テープ類(歌詞忘れを防ぐ「マクベス」・
元気になる「ブルース・ブラザース」・爽快になる「アラバマのロールオン」・
ホッとする「セゴビアのスイス・リサイタル」ほか)・
本(ラーメン狂ゆえ手放せない「多摩のラーメン感動の100店」、
日本男児の心意気「池波正太郎:男の作法」、愛読雑誌「イラストレーション」「楽しい熱帯魚」ほか)・
コンタクトレンズ・鼻洗浄スプレー・カタルとりシロップ・消炎剤・サイラ(純正甘草)・
タイガーバーム・サロンパス・食いすぎに太田胃散(いい薬です)・正装。



【8日】戸締りOK。我が家自慢のポルタ・ブリンダータ(防犯扉)に無事を祈願し(泥棒が入ってくるのを防いでくれるように)、
いざミラノ・マルペンサ空港へ。20時25分MALEV航空のフライト。22時05分にブダペスト着。

劇場秘書のクララ嬢が出迎えてくれて、ホテルまで車で送ってくれる。
車中、今回指揮する予定のジェオルジー・ラート音楽監督が、劇場から解任された事を聞く。
95年ローマ歌劇場での「マクベス」以来の再会を楽しみにしていたのに。。。
今シーズンのプレミエものとして、ヘニング・ブロックハウス氏演出の「マクベス」を選んだのも、
僕に初日組のマクベス役をオファーしてくれたのも彼。
数ヶ月前のハンガリー政権交代と同時に、直ちに解任との事。政治が劇場人事に直接反映されて残念無念。
ホテルは旧体制の面影を色濃く残し、前代未聞の大ビックリ。
ここに一ヶ月滞在と思うと気が重い(ホテル代は劇場負担だから文句は御法度か)。


【9日】演出のブロックハウス氏がベリオのオペラ製作中のため不在。
演出補のベニートが、ヴィデオを見せながら解説(ガボールがハンガリー語通訳)。
ホテルのフロントが何故か気を利かせて、部屋変えの提案。さっそく移動。随分マシな部屋になりホッとする。
夜は、指揮者のリーコ・サッカーニ氏と音楽稽古。
6月カリアリの「トロヴァトーレ」で共演したばかりのジェオルジーナ・ルカーチさんと再会。
彼女、今回はレディ・マクベス役。ATMでフォリント紙幣を引き出して安心。


【10日】e-mailやっと接続出来た、バンザ〜イ!

ここの劇場の豪奢な装飾に感動。個人的にはフェニーチェ座以来の驚き。
舞台稽古一:1幕1場:若い魔女達がビキニ系の服で稽古。はっきり言って反則。気が散って稽古に身が入らず。
夜、演出稽古4幕1場・3幕:魔女との場面で、足が痛くなる。ちょっと心配(まだ肉離れが完全に治っていない)。
真夏のように連日暑い。


【11日】衣装合わせ:都合が悪い部分は、即刻ハサミやミシンでユニクロ的素早さによって調整。
舞台稽古二:1幕1場・3幕2場・2幕2場:ローマでやったものに随分と動きが加わって面倒。
このプロダクションは、ローマ・ジェノヴァ・アスコリピチェーノ・東京と回ったそうで、また将来、何処かでお呼びが掛からないかと期待。


【12日】舞台稽古三:1幕1場・2幕1場・3幕全・4幕フィナーレ:どうして、こんなにしゃがみっぱなしの演出なのか?
遮幕に映す映像を引き立てる為か?全員に“膝あて”が配られ歓喜の声。連日10時〜14時+18時〜22時の練習でハード。

今夜はオフとなり、家内とペスト地区の目抜き通りを散策。“すし庵”で寿司を食べる。
店内にあった在ブダペスト日本人向けの新聞“パプリカ通信”に、僕の名前あり。
国立オペラ劇場の「マクベス」に堀内さんが登板・・と告知。親切な宣伝の恩返しに頑張らねば。


【13日】音楽総稽古(オーケストラ+合唱):舞台稽古のはずが、突然、音楽総稽古(俗に言うプローヴァ・イタリアーナ)。
はっきり言って連絡がズサン!発声準備なしで練習に参加。

ラジオのインタビュー番組“KE'Z E'S LA'BTOERE'ST' !(がんばって!)”に出演。
クララ嬢がイタリア語←→ハンガリー語の通訳をしてくれる。Q:「今回のポスターの出来をどう思うか?」 
堀内:「YASUOが、YASHUOになってるので好きじゃない。」(どうしてか皆大笑い)・・・etcとか、随分バカな事を喋ってしまった。
夜、演出稽古1幕1場・2幕1場・3幕2場・4幕フィナーレ:2時間ほどの合わせ。


【14日】オフ。
温泉天国ハンガリーが誇るヨーロッパ最大規模のセーチェニ温泉へ(人気のゲッレールト温泉は工事中)。
老若男女、水着となって混浴。野外の巨大温泉プールで約2時間くつろぐ。満員である。
“入湯時間は20分がよろし”と注意書きがあるが、誰も守っていない。さすがに湯疲れ。
"BAGOLYVAR"で、郷土料理グーヤシュなんかを食べる(美味い)。


【15日】舞台稽古四:2幕・4幕:助演との動き合わせ。
スタッフの怠慢続きでベニートが激怒。責任の所在が不明確で、労働よりも議論が優先する職場環境。
急激に寒くなって、風邪ひきが多い。


【16日】舞台稽古五:1幕1場・3幕:しゃがみっぱなしで、膝痛し。ブロックハウス氏、ハンブルクから到着との報。
午後からオフ。HERENDやHOLLO'HA'ZAの陶器を見て心安らぐ。今回、まとめて買って帰ろう。


【17日】照明のテクニカル稽古の為オフ。聖イシュトヴァーン大聖堂に御参り。公演の成功を祈る。
ブダペスト一の繁華街ヴァーツィ通りでウインドウ・ショッピング。
地下鉄でリスト記念博物館へ。リストの住んでいた旧住居に彼のピアノや家具、生活用品を展示。
リスト原寸大のブロンズ手が展示してあり、やっぱりデカイ。その割にベッドが小さ過ぎはしないかと疑問。
リスト音楽院前で昼食。15年前の“来ハン”時の記憶と違う。
最もあの時は団体バス移動だったので、街に密着していなかったとも言えそう。


【18日】衣装付舞台稽古(アンテ・ピアノ):朝10時開始との事で、化粧時間を考えて8時半に楽屋入り。
全くこの時間割には閉口。

“TVなんでも鑑定団”に出せそうな年代モノの楽屋に唖然。スタッフが何も憶えていず遮幕の位置を指示出来ない。
一体どういう仕事をして来たんだろうと思う事多し。劇場の仕事手順に国際規格があるとしたら、ここは間違いなく規格外。
それでもここが良質の舞台を上演してきたとしたら、それは他の部門が頑張ったのだと予想(オペラは総合芸術ゆえに)。
ブロックハウス氏の激怒状態が持続。解任された前音楽監督のラート氏が見学に来る。


【19日】合同稽古一(プローヴァ・アッシエーメ):1・2幕:今朝も8時半に楽屋入り。衣装・合唱・オーケストラ付で全力投球。
鼻風邪をひき、ちょっと不本意であった。稽古の休憩中、劇場支配人のミクロシュ・シネター氏と挨拶。彼は御満悦。


【20日】合同稽古二:3・4幕:しつこい鼻風邪に悩まされる。4幕アリア後にやっと声が出た感じ。薬の飲み過ぎかもしれない。
1790フォリント(約900円)で、郷土料理食い放題の安食堂で暴食。アスピリンを飲んで早めに就寝。


【21日】前総稽古(アンティ・ジェネラーレ):全幕:稽古当初から感じてきたが、劇場の響きが大変デッドで難しい。
こういう装飾過剰の劇場は良く鳴る筈なのに。
3幕で声がイマイチの状態になるのは、2幕1場の歌い方が悪影響と推測。ZSOLNAY KAVEHAZでお茶。
全てZSOLNAYの食器で幾分良い気分。


【22日】オフ。
大雨でヤーノシュ山行きを断念。逆に今までの疲れがドッと出て来てしまった。
消炎剤・カタルとりシロップを飲み、ハンガリー製の強力プロポリス"PROPOLISZKIVONATOT"を舐めつつ、
水で濡らしたガーゼマスクを終日つけて喉のアフターケア。ホテルで一日中休息。
連日の高コレステロール系ハンガリー料理で、太田胃散のお世話に。
テレビでシュトゥットガルトでの「愛の妙薬」公演を放送してたが、色々思い出すので、ブンデス・リーガにチャンネルを切り替える。


【23日】記者会見:ブロックハウス氏が演出コンセプトを説明。ポランスキーや黒沢の映画の影響も明示。
異なる5つの劇場で製作してきた中で、昨年、藤原歌劇団とやったものが最も理想的な製作体制であったと本音が漏れる。
それに伴い、僕には日本のオペラ環境について質問あり。幾分ネガティブに回答。

お国自慢のトカイ・ワインで皆と一杯となるも、即刻お開き。
昼時目指して、ドナウ河沿いに位置する中央市場へ。市場なのにアール・ヌーヴォー式建築で凄い。
この建物の絵柄Tシャツまで売ってて一笑。パプリカの売り場面積に圧倒される(ここは韓国か?)。
滞在中に、鯉とナマズのスープ及びフライ料理を平らげねばと計画。


【24日】合同稽古三:3・4幕:衣装・化粧なし、オーケストラ・合唱・照明つき。
10時開始のプローヴァは、やはり早すぎ。明日公開ゲネプロなので声を温存する為、殆ど誰も本気で歌わず。
“パプリカ通信”のルーリンツ美智代さんから、楽屋に思わぬ差し入れを戴く。ご多忙の折の御親切に感謝。大雨で、ホテル休息。


【25日】総稽古(プローヴァ・ジェネラーレ):19時開演、公開である。声のコンディションがようやく戻ってきた。
本公演もこの調子で乗り切りたい。聴衆は、オケ・劇場ソリスト・合唱の家族や関係者が大半。したがって全くの内輪受け。

23時から全国紙“NE'PSZAVA”のインタビュー。僕だけの取材なので、大いに喋る。0時15分に劇場から退出。


【26日】裏組の総稽古の為オフ。
HERENDやHOLLO'HA'ZA、ZSOLNAYの食器を購入。
バンコー役のアレクセイ・タノヴィツキーが、11月のビルバオ国際声楽コンクールを受けたいと言うので、要項をメールで問い合わせ。
27才ながらマエストロ・ゲルギエフの指揮下、マリンスキー劇場で満たされていて、今更コンクールでもないと思うのだが・・


【27日】オフ。明日に備え休息。
魚料理のコースを注文したら、1皿目は、ヒデグ・ジュムルチレヴェシュという、生クリームのかかった冷たいサクランボのスープ。
これデザートにしてもいい位、美味い。


【28日】公演初日:19時開演。大成功〜っ!!

色々とこの劇場のやり方に苛立ちを感じたりもしたが、この盛り上がりで全て帳消し。
合唱団のお姉さまから、お手製の魔女人形をプレゼント。
別のお姉さまからは、小さなテディ・ベア人形を手渡され「この熊を世界中の劇場に連れてってあげてね。」・・だって。
「KOSZONOM:クスヌム(ありがとう)」の連発。皆様に暖かく支えられて感無量。一日にしてハンガリー贔屓に変身。
61年にマエストロ・ガルデッリが指揮して以来、ブダペストでは41年ぶりの「マクベス」公演。
記念すべき公演に参加出来て正直嬉しい。FMの生中継も上手くいった事を願う。
劇場のフォアイエで打ち上げ。ブロックハウス氏もご機嫌。


【29日】オフ。久々の快晴。ハイキングがてら、ヤーノシュ山方面へ。遠い遠い!
途中バルトーク記念館へ立ち寄る。かつての住居を記念館に。ベーゼンドルファーのピアノを使っていたとは意外。
バルトークの声を聞けるコーナーもある。IGEN:イゲン(はい)とNEM:ネム(いいえ)しか聞き取れず(当たり前である)。。。
ルーリンツ美智代さんから“パプリカ通信”10月号の原稿を依頼されたが、その謝礼として戴いた
日本料理店“FUJI”の食事券を使って家内と“初日終了祝い”をする。
ブダ側のドナウ河畔から眺める国会議事堂の風景は格別。


【30日】オフ。快晴。
暖かさが戻ってきて嬉しい。ルーリンツ美智代さん、お嬢さんのクリスティーナちゃんと会食。鯉料理満喫。
ドナウに煌めくブダペストの夜景(特に王宮と、くさり橋)が美しい。


【10月1日】公演2日目。劇場広報部から舞台写真を受け取る約束。今日も19時開演。張り切って準備。
原稿締日のため“あもーれ・みぃお”宛に、これからこの原稿を添付してメール送信。 

2002年10月吉日


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NO.13 “道中双六∞ローマのマクベス” 
(2002年11月)

先月のNO.12“ブダペスト物語”の巻、初の試みとして日記風にエッセイを進めましたが・・

書き続けるのに根気が必要でした。
あの後、残りの2公演(10月1日と5日)を無事に終え、その合間にナマズを食し、
ハンガリーの養命酒“UNICUM”と特産物の安価フォアグラを買い込み、コダーイ記念館を訪問し、
王宮の丘の地下洞窟を彷徨い・・と余暇を楽しんで10月6日に、ミラノの自宅に戻った訳です。

そして劇場から直接支払われた出演料全3公演分から、条件交渉に携わったイタリアの音楽事務所へ、
毎度ながら手数料12%(COMMISSIONE10%+IVA20%)を渋々(感謝を込めつつの書き間違えでした!)銀行振込し、
これをもちましてブダペスト物語は終わりました。

が、また呼んで頂ければ、喜んで馳せ参じる所存でございます。
劇場支配人のミクロシュ・シネターさん、宜しくお願い致します。パン☆パン☆←拝む時の手合わせの音。
それになぜか、ホテル傍BOMBAY PALACEのチキン・カレーをまた無性に食いたくてしょうがない今日この頃であります。
双六ではないですが、先月は日記にかまけていたので、
今月は「マクベス」のストーリー案内とローマでのマクベス初出演話まで戻りましょう。

・・・スコットランドのダンカン国王に仕える二人の将軍マクベスとバンコーは、ノルウェー軍を撃破する。
凱旋途上、二人は魔女たちに遭遇し「マクベスはスコットランド国王に、バンコーは国王の父になる」と予言を受ける。
マクベス夫人は、その事を知らせる夫からの手紙を読んで野心に燃える。
やがて国王来訪が知らされ、夫人は帰って来た夫に国王殺害をそそのかし、マクベスは慄きながらも暗殺を遂行する。

今や国王となったマクベスは、バンコーに対する予言が気懸りとなり、バンコー親子殺害を刺客たちに命じる。
(バンコーは殺され、子供は逃走に成功する。)城の大広間での国王就任の祝宴の席上、
ひとりマクベスはバンコーの亡霊にとりつかれ狂乱状態となる。人々はその狂気を疑う。

新たな予言を求めてマクベスは、魔女たちの住む洞窟を訪れる。
「女から生まれた者には殺されない。」「バーナムの森が動きださなければ安泰だ。」と忠告を受け不死身を実感するが、
「バンコーの子孫が王位を継承する。」と聞き気絶する。

マクベス夫妻は、敵を皆殺しにする決意を固める。イングランド軍と手を組んだダンカン王の息子マルコムは、
貴族マクダフの援護を得て、国を追放された亡命者達とバーナムの森の木々を切って身に付け、マクベスの城へ迫る。
夫人は夢遊病により死亡し、バーナムの森が動いたという知らせにマクベスは動揺し、戦場に臨む。
マクダフの「自分は母の腹を破って生まれて来たのだ(帝王切開?)」という言葉を聞き、
神通力を失ったマクベスは、マクダフによって殺され、マルコムが王位に就く。・・・

「ローマ歌劇場がマクベス役を探しているから、オーディションを受けるように。」

と当時の音楽事務所から電話を受け、会場に指定されたモデナ市の劇場に行きました。
約束の正午に到着したものの、肝心のローマ歌劇場デ・ヴィーヴォ監督が居ません。
問い合わせれば、別件があって5時か6時頃に到着予定との事。
「日を改めてオーディションを受けた方が良いよ。私がまたアポをとるからさァ。」と、
事務所で僕の売り込みを担当するチンツィア嬢の理に適った提案の電話に一瞬心が動いたものの、
その時何故か、営業マン時代の遠い記憶が蘇えって来たのでした。


味の素30箱・ハイミー20箱・マヨネーズ300箱・クノールカップスープ20箱ほどが営業ノルマに足らず、
ある月末の午後、食品問屋の道北リョーショク美唄(びばい)支店・佐竹仕入れ課長を訪問しました。
「オゥ、なした?今月はもう買わないって言ったしょ!」この先制パンチにも拘わらず、
「今月ばかりは、買って戴かないと会社に戻れません!」と言って夜10時ごろまで居座りました。
「しょうがねぇ〜なぁ、あんたも。したら、今月だけは買ってやっから。」


・・・粘り勝ちした営業マン時代唯一最良の日の記憶が、先のチンツィア嬢の提案を跳ね返す事になったのです。
「やっぱり、俺ここに残って監督に聴いて貰うから。日を改めたらダメな気がする。」・・・

5時間後に現れたデ・ヴィーヴォ監督の顔が似ても似つかぬ佐竹課長の顔にダブって見えた瞬間、
これはいけるかもしれないと直感しました。マクベスのアリアを歌い終えた後、OKが出たのです。


「あなたをローマ歌劇場に招待します。2週間後には準備完了の状態でローマに来るように。」

歌の出来よりも粘り強さを買われた気がしましたが、OKはOK。へとへとになってミラノの自宅に帰りました。
翌日、オーディションのあらましをチンツィア嬢に電話すると、

「え?デ・ヴィーヴォがOKを出した?招待するって言ったの?ウッソー、信じらんな〜い?!」

開口一番のこの返答にチッと呆れたなァ〜あん時は!!
・・・でも事務所中で「でかした、やすお!!ブラボー!!」と大喜びしてくれたので、やっと力量を認めてもらえた事に
ホッと胸を撫で下ろしたものです。


さぁ、それからがこのヴェルディの大作との戦争です。シェークスピアの原作を日本人会の図書貸出文庫から借り、
マクベスの楽譜とありったけのCDを買い込み、家内のピアノ伴奏で猛練習です。

その後出会ったウルサ+イジワル型マエストロ(セヴェリーニ氏とかオーレン氏)にも勝る家内の“鬼のような”特訓に、
喧嘩もせず涙をグッとこらえて大人しく耐え、寝言でも「バンコー〜」と出るほど詰め込み勉強をして、ローマへ出陣した訳です。

約1ヶ月半に亘るなが〜い稽古の後、レオ・ヌッチ氏・ロベルト・セルヴィレ氏に次ぐ3番目のマクベスとして、
全10公演のうち最後の2公演を受け持ちました。無事に公演を成功裏に終える事が出来、
それによって、当時の藤原歌劇団・五十嵐喜芳総監督から日本デビューのお仕事を戴く事となった次第です。

この時出会った演出のヘニング・ブロックハウス氏や当時氏の演出補だった粟国淳氏、バリトンのレオ・ヌッチ氏とは、
その後何度か御一緒する機会に恵まれ、大変勉強させて頂いております。
ローマでのマクベスがこの何年間かのキャリアを広げる役割を果たしてくれたように、
先月のブダペストでのマクベスが、僕をなにか新たな道に導いてくれたらと願っています。
たまには、双六が良い方向に行くこともあるでしょう。 

2002年11月吉日


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NO.14 "珍道中の終わりに" 
(2002年12月)


この連載を始めて、今月で14回目を迎えました。お約束の期限通り今回が最終回です。
長らくご購読下さり、有難うございました。

仕事の合間に、勉強中に、休業中にせっせと書くのもなかなか楽しいものでした。
基本的には毎回、僕が出演したオペラにまつわる話を書くことで、一人でも多く方が、
オペラを見てみたいと感じて頂けたらと、筆を重ねて来ました。
結局、僕が出演した16のオペラ演目18役のうち、11演目11役についてのお話となりました。


1年前ひょんな事から、「あもーれみぃお」の管理人・酒井さんからエッセイを依頼され、
最初は躊躇していましたが、取り組んでみて、自分のキャリアも勿論ですが、
ピアニストの家内(札幌時代にオペラ・室内楽・ソロで活躍)と二人三脚で過ごしてきた喜怒哀楽の11年間を
振り返る事にもなり、自分にとっても、たいへん有意義な作業でした。


個人的にはこの一年、色んな事がありました。エッセイには一々書きませんでしたが、1月はミラノの自宅に泥棒が入り、
8月は右ふくらはぎの肉離れを起こし、9月は右脇腹を打撲し、10月はヴィザの問題がもちあがり、
11月は初めて秋の花粉症にかかってアレルギー性鼻炎と副鼻腔炎を併発し・・と厄年はまだなのに、結構災難続きの一年でした。
受難の一年と覚悟して生活して参りました。

まァ愉快な事や嬉しかった事も沢山あったので、プラス・マイナス=ゼロの収支決算と考えることにします。

来月よりエッセイから解放される訳で、最終回の本ページには、今後の抱負や夢について書き残しておこうかと思います。


"この面・この喉・この体格でどこまで出来るのか・・"
これがデビューから一貫して揺るがない僕の活動テーマであります。

"どうなる事か、やれるだけやってみよう。"
というのがバカみたいですが、今後の抱負であります。

それから夢ですが、胸に秘めている数多くの夢の中から、今、ひとつだけ恥を承知で言ってみます。
ヴェルディのオペラには、バリトン歌手がタイトルロールを務めるものが合計6つあります。
今までそのうち、「マクベス」「リゴレット」「ナブッコ」のタイトルロールをローマ・ヴェネツィア・ブッセート等で歌って来ました。
出来れば残りの「2人のフォスカリ」「ファルスタッフ」「シモン・ボッカネグラ」のタイトルロールもイタリアの劇場で歌いたい・・
そしてイタリアのオペラ演奏史の片隅にでも自分の足跡を残して置きたい・・というものです。

音楽的にも声楽的にもレパートリー的にも何の根拠もありません。
しかし、そういうオファーが来るのを待ち続けるというのも、天啓を待つ心持ちで夢っぽいじゃないですか。


ところで2004年は、ヴェネツィア・フェニーチェ座でのオペラ歌手デビューから数えて10年目になります。
(サラリーマン時代に客演した北海道二期会の「修禅寺物語」を勘定に入れると15年目となります。)
それ以降にでも、舞台写真を整理して、ネット上で回顧展でもしてみましょうか?
あぁ〜いやいや、それより何より、ぜひ劇場に足をお運び下さい。
劇場でお会い出来るのが何よりですよね。

それでは皆さんお元気で。良き2003年をお迎え下さい。

アッリヴェデルチ。エッヴィーヴァ・オペラ!!(また会いましょう。オペラ万歳!!)



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