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バリトン堀内康雄の『オペラ珍道中』 (P2)



NO.5 “ラ・ボエーム:僕の青春のオペラ” 
 (2002年3月)

日本は花粉症の春でしょうか? 

今月は「ラ・ボエーム」のお話です。先日、楽譜を収納している本棚を整理していたところ、
リコルディ版の「ラ・ボエーム」に黴が生えていて、日光に当てなければ・・と再び楽譜をペラペラと繰って見ると、
様々な思い出が浮かんできた訳です。

生活費にも困っていた留学3年目、何とかコンクールの賞金で食いつなぎ、このオペラによって、
僕はヴェネツィア・フェニーチェ座で職業歌手としてデビューしました。
その後、再び真夏のヴェネツィア、ピアノ伴奏でやった演奏会形式のゲンメ、紅葉真っ盛りの札幌、
ミレッラ・フレーニさんやニコライ・ギャウロフ氏と共演した藤原歌劇団公演と出演を重ねました。
思えば僕のキャリアの節目に、あるいは個人的な人生のちょっとした転機に、いつもこのオペラをやって来た気がします。
そういう巡り会いって、どんな歌手にもあるのかも知れません。つまり、曲に対する思い入れとは別に、
いつもむこうからやって来るというか、そこで待っているというか。。。


・・・詩人ロドルフォ・画家マルチェッロ・哲学者コッリーネ・音楽家ショナールの4人の若者達は、
パリの屋根裏部屋に同居している。各々、志は高いが貧乏この上ない。
物語はロドルフォとお針子ミミの悲恋を中心に、対照的なカップルであるマルチェッロとムゼッタの恋模様がシンクロする。
最終幕、重い肺病を患うミミは、別れていたロドルフォを訪ねる。ミミの不在で物思いに沈みがちなロドルフォであったが、
彼女の只ならぬ容態に愕然とする。若者達は各々、ミミを助けようと知恵を絞って奔走するが、時すでに遅し。
ミミは、マフを持ちながら息を引き取る。若者達の絶望とロドルフォの号泣のうちに幕。

・・・第1幕ロドルフォの“冷たき手”やミミの“私の名はミミ”、第2幕ムゼッタのワルツ、第3幕の四重唱、
第4幕コッリーネの“外套の歌”など、正に珠玉の名曲の数々。
最終幕のクライマックスでは、誰でも一度ぐらい劇場で泣いた経験があるのではないでしょうか?
バリトンのマルチェッロとショナールには、アリアらしきものは無く、大変不公平に感じますが、
それぞれ絶妙に性格描写が描き分けられていて、どちらを演じても満足します。


コンクールに優勝しても、鳴かず飛ばずだった留学3年目、“1年の計は元旦にあり”にならって、
元旦にミラノ中央郵便局にイタリア中の劇場宛に手紙を投函しました。
内容は、オーディションをして、自分をオペラに出演させて欲しいというものです。
5つほどの劇場から返事が来ましたが、オーディションを受けてみても結果は芳しくありませんでした。
そんな中で、フェニーチェ座のシチリアーニ監督が、若い歌手を使った「ラ・ボエーム」を自分の劇場で上演しようとしていました。
手紙が功を奏したのか、運良くアポイントをもらった僕は、ショナール役を希望してオーディションを受けました。
マルチェッロ役は強豪が集まると踏んだからです。

蓋を開けてみるとショナール役にも20名程のバリトンが名を連ねていて、
しかも自分の所属する音楽事務所のキレイな女性マネージャーまで同伴している奴らもいました。
正直言って大変気後れしましたが、「なに負けるものか」と、応援団張りの気合でショナール登場の歌をがなり上げました。
オーディション直後に、「あなたは、今までにオペラに出演した事がありますか?」の質問。
僕は迷わず答えました。「もちろん。日本で“修禅寺物語”と言うオペラに出演してますよ。」
このハッタリが効いたのか、後日電報によって合格の知らせを受けたのです。
(なぜ、電報なのか?その頃我が家には、FAXもE-MAILも無かったのです)


数ヵ月後、喜び勇んで劇場に赴くと、まずフェニーチェ座内部の壮麗な美しさに見とれてしまいました。
しかしハードだった稽古では、ほとんど若葉マーク状態の僕が、皆の足を引っ張るばかりで、意気消沈の日が続きました。
何とか本番では、同僚の援護にも助けられ、無事にデビューを飾る事が出来ました。
同じ舞台を踏んだロドルフォ役のマルコ・ベルティは今でも大悪友の一人、
またマルチェッロ役のジョヴァンニ・メオーニには個人的に、色々と歌のテクニックを教わって、
それによって今日の僕がある気がしています。
いまだに彼らとの絆をどこかで感じるのは「ラ・ボエーム」というオペラのなせる技なのでしょうか。

すごくショックなのは、ミミ役だった韓国人のヘイ・オク・ムーンさんが、2年程前、大変若くして癌で他界された事です。
容姿も可愛らしかった彼女の澄み切った美しい声は、シチリアーニ監督のお気に入りでした。
二人で、サン・マルコ広場を散策中に「私は大きなキャリアを作るんだ!」って張り切っていた姿が、目に焼きついています。
彼女だったら、本当にその夢を実現しただろうなぁって、大変残念に感じます。
私生活も聞くところから推察すると、本当にミミみたいな人生だったんじゃないかと可愛そうに思います。
心よりご冥福をお祈りするばかりです。

ところでマルチェッロ役も、これまた思い出たっぷりの役ですが、それについてはまたいつか機会があれば、
お話したいと考えています。

2002年3月吉日


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NO.6 “2001年ヴェルディの旅 / ドン・カルロ編” 
 (2002年4月)

ミラノも花粉症の季節が到来しました。毎年4・5月が酷くて、歌など歌っていられない程ですが、
NASONEXというスプレイを使い始めて、大分凌ぎやすくなりました。

今月は、NO.4“2001年ヴェルディの旅 / ナブッコ編”の巻に続き、“ドン・カルロ編”です。


・・・・時は1560年。スペイン王子ドン・カルロは、許嫁であったフランス王女エリザベッタが政略により、
自分の父であるスペイン国王フィリッポ2世の妃となった事で、嘆き悲しむ。
無二の親友・ポーザ候ロドリーゴは、恋を諦め、圧政に苦しむフランドルを救済する事に人生を賭けるように彼を励ます。
異端者処刑の場に、カルロは使節を従え、フィリッポにフランドル救済を直訴するが、反逆罪として囚われる。
王の居室でフィリッポは、自分が王妃エリザベッタから愛されていない事で、孤独感に苛まれる。
カルロを密かに慕ってきた美貌のエボリ公女は、嫉妬から王女を陥れようと宝石箱を使った姑息な行動に出るが、
良心の呵責に耐え切れず、全てを自白する。ロドリーゴは、カルロの身代わりとなって死ぬ事を決意し、
牢獄のカルロに別れを告げにやって来る。
獄中に銃声が轟き、ロドリーゴはフィリッポと宗教裁判長が仕向けた刺客に暗殺される。
自分の美貌を呪い、尼寺に入って懺悔の余生を送る事になったエボリ公女は、民衆の乱入に紛れて牢獄よりカルロを逃がす。
翌日、サン・ジュスト寺院で、エリザベッタとカルロは落ち合い、天上での再会を誓うが、
フィリッポと宗教裁判長が現れ、カルロを捕らえようとする。
突如、先代国王カルロ5世の亡霊が出現し、カルロを墓の中に連れ去ってしまう。
エリザベッタもショックからその場に倒れ、絶命する。・・・・

サラリーマン時代から勉強して来たロドリーゴ役には、ミラノ・スカラ座をはじめ多くのオペラ鑑賞の思い出があります。
なかでも東京出張に合わせて鑑賞した藤原歌劇団の「ドン・カルロ」公演では、
ロドリーゴ役のピエロ・カプッチッリの声そのものの美しさ、省エネ唱法による長いフレージングと、
上から降ってくるような強烈な声の威力に当てられて、鳥肌が立ちっぱなしになったものです。
終演後は、彼の圧倒的なロドリーゴもさる事ながら、
熱気溢れんばかりの名演を成し遂げた藤原歌劇団というオペラ団体の存在に驚嘆し、
フラフラし過ぎて終電に乗り遅れた記憶があります。
円熟の境地にあったカプッチッリの演唱が頭にこびり付いていた中で、ある演奏のヒントを与えて下さったのが、指揮者・大野和士氏でした。

97年東京フィルの「ドン・カルロ」で、細かな心理描写を要求され、こちらもそれに応えようと稽古を続けました。
演奏は、氏の要求通りには実現出来ず、歯痒かったですが(氏は、「でも、充分気持ちは伝わりましたよ。」と言ってはくれましたが・・)、
その経験が、2001年のヴェルディ・イヤーに生きて来たのを実感出来たのは、自分にとって最高に嬉しい発見でした。
昔やった事が、寝かす事によって良くなるというか、発酵するというか、熟成するというか、
そういう事ってあるんですね。(まるで自分がワインになった気分。それが、良いワインでなきゃ困る訳ですが…)

12月に出演した新国立劇場・藤原歌劇団共催の公演は、ルキーノ・ヴィスコンティの舞台・原演出という
正に舞台人にとって、夢のような企画でした。
装置が出来上がった舞台を見て、指揮者のカッレガーリ夫妻が感嘆の声を上げたのが、印象的でした。
国内外の一級歌手に混じって、緊張感のある稽古が出来て、実に心地良かったです。
同じ役の初日は、世界最高峰のヴェルディ・バリトンであるレナート・ブルゾン氏が勤めました。


90年代前半、僕は正にブルゾンかぶれで、歌曲であろうがオペラであろうが、
ブルゾンを聴かなければ始まらない程の崇拝者でした。ブルゾニアーノを目指して勉学に励んでいた訳です。
2001年には、さすがにブルゾン熱は冷めてしまっていたものの、やはり至近距離で実物の歌に接すると、
忘れていた熱がまた蘇える瞬間が、波のように訪れました。
思えば今までに、何人かの大バリトンと一緒に仕事をする機会がありました。
レオ・ヌッチ氏(ローマ、ヴェネツィア、カリアリで「マクベス」「リゴレット」「ナブッコ」)、
ジョルジョ・ザンカナーロ氏(ジェノヴァ、ローマで「道化師」「リゴレット」)、ホァン・ポンス氏(ブッセートで「ナブッコ」)。
概して、なかなか近づき難いオーラを持つ彼ら(キャリアからして当たり前?!)は、しかし、実際には大変フレンドリーで、
僕ら若手歌手に優しく接して戴いて、また多くのアドヴァイスを賜り、予想外に嬉しかったものです。


ブルゾン氏の場合は、残念ながら、あまり会話を交わす機会は持てませんでした。
ただある日の練習で、彼の前で“ロドリーゴの死”を歌った直後の休憩中、僕の肩に手を掛けて何度も大きく頷いたことがありました。
今思えば、同じ役のバリトンに冷淡という評判のブルゾン氏の、僕に対する精一杯のねぎらいのジェスチャーだったのではないかと、
有り難く受け止めている次第です。
初日が過ぎて、10年前の教祖様にサインを戴いたのは言うまでもありません。ヴェルディ・イヤーの最後に、良い記念になりました。

2002年4月吉日


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NO.7 “珍道中、折り返し地点” 
 (2002年5月)

先月18日、ミラノの最高層ビル “ピレッローネ”(30階建て)に小型機が激突し、大変な騒ぎとなりました。
以前からイスラム原理主義テロの標的となっていたビルだけに、ニューヨークのテロを想起させる不気味な“事故?”でした。
我が家から中央駅に行くのに便利なトラム33番が、あの真下を通るのでチョッと嫌です。
パスクア以降、ミラノ・フィレンツェ・ヴェネツィアの3都市がテロの標的になっているそうで、
一点の曇りを抱えながらの日常生活・・と言うのが否定出来ない現実です。

さて、サルデーニャ島の州都カリアリでの「イル・トロヴァトーレ」の練習が6日より始まろうとしています。今、家内と一緒に荷造りの最中です。

あそこは、今回で3回目の仕事(97年「リゴレット」で、モンテローネ役の公演とリゴレット役ジャン・フィリップ・ラフォン氏のカバー、
01年「ナブッコ」で、ナブッコ役レオ・ヌッチ氏のカバー)。
イタリアきってのタイクーンが住んでいる事もあり、このカリアリ市立劇場には、ロリン・マゼールやジョルジュ・プレートル、
はたまたカルロス・クライバー、おまけにボチェッリやスティングといった大物がやって来る事でも知られていて侮れません。

一方、無類に透明な海と豪華な魚介類、それに美しいサルダ(サルデーニャの女性)に眩惑されます。
また皆と会えると思うと、心も弾んでしまいます。オッと、海水パンツを入れるの忘れるところだったです。

さて、今回は12月に連載を終えるこの「オペラ珍道中」の、折り返し地点です。
今月は多少趣向を変えて、僕の青春の1冊である岡村喬生著「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」―新潮社刊―をご紹介したいと思います。

サラリーマン時代に北海道の岩見沢を営業中、ふと入った書店で何気なく買った本書に、絶大な影響を受けました。
早稲田大学を卒業した著者が、イタリア留学を踏み切り、なけなしの金と市場で恵んでもらったソーセージをかじって、
トゥールーズ国際コンクールに優勝し、ヴェローナ・ケルンなど欧州の大劇場で、主役バスとして活躍し続けた体験を
熱い文章で綴った一冊です。
今思えば、この本の感動に突き動かされて、歌の道を選んだように思います。
今でも悲しかったり、情けなかったりと、仕事上の悩みがある時に、必ず本書を取り出して、勇気を貰っている次第です。


岡村氏に引き続いて93年に、僕がトゥールーズのコンクールで優勝した時、
氏が東京新聞の「本音のコラム」で僕を激励して下さっていた事を半年後に知りました。
座右の書の著者が、全く思いも掛けず、直接自分に語り掛けて下さった感動は忘れられません。
今回は、そのコラムを掲載することで、初心を忘れず気持ちを新たにして、珍道中を折り返したいと考えています。

  (注)女声部門では、番場ちひろさんが1984年に優勝しています。
2002年5月吉日


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NO.8 "椿姫とアラーキーと" 
(2002年6月)

「天才アラーキー 写真ノ方法」荒木経惟 ― 集英社新書 ― を何度か読み返しています。
数年前、ミラノのギャラリーで彼の個展を観ましたが、大変素晴らしかったです。
以前は彼の奇異な言動から、その作品をも敬遠していました。
しかし、ミラノで作品と対峙した時、この稀有な才能の写真家の持つ美意識の凄みがひしひしと伝わって来て、
自分が、まだまだ鑑賞者として未熟だった事を思い知らされた訳です。
昨年、日本に一時帰国の折、本書が平積みされていたので、慌てて買いました。
全編に亘り、彼の芸術観・仕事観が散りばめられていて、分野は違いこそすれ、同じ芸術に携わる者にとって、
大きな示唆を与えてくれる手引書といえます。
「完成を求めて完成しない。」「方法論っていうのはね、現場に行ってから出てくるの。」等々、ありがたい語録の数々。
噛み締めて読んでおります。さて、今月は「椿姫」でした。

・・・パリ社交界の花形で高級娼婦である"椿姫"ヴィオレッタは、華やかな夜会で純朴な青年アルフレードに出会い、
真の愛の目覚めを実感する。3ヵ月後、二人はパリ郊外で愛に満たされた毎日を送っている。
暮し向きはすべてヴィオレッタの財産を売って賄っている。
突然、アルフレードの父親ジェルモンが訪ねて来て、娘の縁談に差し障り、一家の名声を傷つけるからと、息子との絶縁を求める。
娼婦の過去を許さない厳格なジェルモンの説得に、ヴィオレッタはやむなくアルフレードと別れる決意をする。
入れ違いに帰宅したアルフレードに、父は故郷プロヴァンスを思い出させようとするが、
ヴィオレッタが自分を裏切ったものと嫉妬に猛り狂う。

フローラ家の夜会で、ヴィオレッタを発見したアルフレードは、誤解と嫉妬で興奮し、賭けで得た札束を人々の面前で彼女に投げつける。
思いがけない仕打ちにヴィオレッタは気を失い、息子を追って来たジェルモンは彼女の苦悩を察して胸を痛める。
最終幕。重い肺病のヴィオレッタは病床にある。
父親から事実を知らされたアルフレードが戻ってきて許しを請い、二人の生活の再開を提案する。
「自分の娘として受け入れよう」と遅れて駆けつけたジェルモンは、死期が近い彼女を見て、
余りに大きかった彼女の払った犠牲を目の当たりにし、深く後悔する。
ヴィオレッタは、自分の絵姿の入ったペンダントをアルフレードに形見として渡し、息を引き取る・・・


藤原歌劇団が、"成人して初めて観るオペラ"として毎年、成人の日を挟んで「椿姫」公演に取り組んで来ました。
今年で10回目となり、毎年誰がヴィオレッタを歌うかで話題となり、日本のオペラ界でもすっかりお馴染みのシリーズになりました。

父ジェルモンとして、僕も97年と今年の公演に出演しました。(99年は、出口正子さん・市原多朗氏という大御所の方々と歌うはずでしたが。。。 
本番直前にインフルエンザ39度の高熱でダウン!! あえなくキャンセルとなりました。)

97年は、悪友マルコ・ベルティを息子役に、ヴィオレッタ役がアンジェラ・ゲオルギューさん。
一世を風靡したロンドン公演のヴィオレッタさながらの美しさで渋谷にいらした時は、ホント息を呑んだものです。
音楽稽古も演出稽古も色々と都合の悪い事がありましたが、あの美貌と可愛らしさで(実力も勿論です)、すべて許されてしまっていました。
手元にこの公演のビデオを持っていますが、キャリアの初期に僕も正真正銘のプリマドンナ相手に、
よくもまぁ奮闘したものだと感慨深いものがあります。
昨年から、僕も彼女と同じ音楽事務所に所属していますが、プリマドンナとの距離が縮まる事は決して御座いません。
そういえば打ち上げのレストランで、彼女が素パスタしか食べなかったのは、プロポーションのためでしょうか?(もっと食えばいいのに。)

今年の公演は、チンツィア・フォルテさんのヴィオレッタ、マッシモ・ジョルダーノ氏のアルフレードという、今イタリアで最も期待されている若手二人でした。指揮者のステーファノ・ランザーニ氏も含めて彼ら3人は、僕が2000年まで5年間所属していた音楽事務所の演奏家で、
その社長も今回聴きに来るという事で、気合充分(音楽的な次元の話ではありませんが・・)で臨んだ訳です。
ランザーニ氏は、レナート・パルンボ氏と共に僕の好きな若手指揮者の一人です。
彼の持っている音楽は、本当にアッフェットゥオーザで、新しくて、ブラッチャも大変綺麗だと思います。
フィーリングが合うというか、彼の要求にはいつも全身全霊で応えることになります。
「声量的にもっとメーノ(少ない)なら、君はもっとブラーヴォだよ。」と、僕(ジェルモン)がヴィオレッタ役のフォルテさんに
フォルテな事をピアニッシモで迫るよう指示されました。

新しいフレージングを試みるのは、大変に勇気のいる作業ですが、アラーキーに感化されたか、ランザーニ氏の棒テクのお陰か、
舞台上で、ある程度それを実現する事が出来て満足しています。
アラーキーかぶれでは決してありませんが、毎回何か新しい試みにチャレンジする事で、少しずつでも技術的に向上して行けたらと望んでいます。 

2002年6月吉日

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NO.9 “リゴレット / 生にんにくとギロに頼る” 
 (2002年7月)


それにしても暑いですね。でも僕は、夏が最もイタリアらしくて好きです。
光と影の強烈なコントラストが、この国の美意識の根底にあると思いますが(あるいはそれを地中海的美意識と呼べるかもしれません)、
それを体感出来るのが夏だと思います。

常夏の海辺に横たわり、トップレスの女性達にボッティチェッリをダブらせるのは、僕がお目出度いからでしょうか?

6月9日迄の「イル・トロヴァトーレ」公演に引き続き、またサルデーニャ島のカリアリ市立劇場に戻ってきました。
今回はアンフィテアトロ・ロマーノ(ローマ時代の円形闘技場)での「リゴレット」公演。

“申し訳ないが、リゴレット役のカバーをやって欲しいのだが・・”

と6月の公演中に芸術監督から懇願され、“公演は無くともまた生活費になるぞ〜!”と、申し訳ないどころか喜んでお引き受けした訳です。
それにここに居れるだけで、僕はいつも幸せであります。理由は5月号 “NO.7 珍道中、折り返し地点” に書いたばかりです。
そういえば妙な話があるので脱線しますが、この町の中央市場に入っていくと毎度、魚屋のオヤジ達に

“チャオ、マッシモ!”

と呼びかけられ、ウツボやカラスミやアラゴスタを勧められるのです。
僕が、マッシモと言う名前のイメージに合致するのでしょうか?ちなみに去年来た時は、

“チャオ、マッシミリアーノ!”

と呼ばれていました。カリアリの魚屋達の目には、自分がマッシモ系あるいはマッシミリアーノ系の容姿に映るのだと仕方なく解釈して、
納得しているところです。いずれにしても妙だと思いませんか?
(注:ウツボは、ブツ切りにして小麦粉をまぶして、オリーヴオイルでフライにすると美味いそうです)

そういう訳で、サルデーニャ島の地ビール“イクヌーザ”を飲みつつ、今月はリゴレット話を書いてみます。

・・・時は16世紀。好色三昧のマントヴァ公爵は、今宵も大夜会でお楽しみ。
公爵付きのせむしの道化師リゴレットは、公爵に娘を弄ばれたモンテローネ伯爵を嘲笑ったため、伯爵から「呪い」をかけられる。

妻に先立たれたリゴレットは、一人娘ジルダを生涯の宝として、悪い虫がつかないよう大事に育てているが、
彼女は教会で出会った貧乏学生(実は公爵の忍びの姿)に恋心を抱く。
公爵の廷臣達は、美しいジルダをリゴレットの愛人と誤解し、公爵のもとへさらっていく。リゴレットは、娘が連れ去られた事を知って愕然とする。

憔悴したリゴレットは公爵邸を訪れ、廷臣達に娘を返せと、父親の悲しみを吐露する。今や、伯爵と同じ境遇となったリゴレットは公爵に復讐を企てる。彼は、刺客業スパラフチーレに公爵を殺す依頼をするが、それを盗み聞きしたジルダは、公爵への恋心を棄て切れず、男装して公爵の身代わりとなって剣に倒れる。

金と引き換えに死体が入っている袋を受け取り、復讐を成し遂げたと狂喜するリゴレット。
しかし、袋から出て来たのは瀕死のジルダ。彼女は、愛する人の身代わりとなって死ぬ事を父に詫びつつ息絶える。
リゴレットは「呪い」の恐ろしさに慄き、娘の亡骸の上に崩れる。・・・

キャリアのしょっぱなに、何の縁があったか、円熟期に取り組むべきこの大役を何度もやる羽目になりました。
(はっきり言えば、音楽事務所から来たオファーに対し、NOと言えなかった所為ですが・・・)
ローマ歌劇場夏季公演では、「モンテローネ役4回とリゴレット役のカバー歌手」という契約でしたが、
リゴレットをやるはずのパオロ・コーニ、ジョルジョ・ザンカナーロ両氏が立て続けにキャンセルし、
彼らの代役として舞台に立ったのが事の始まりでした。
「明日もまたモンテローネ」とリラックスしていた矢先に、芸術監督から電話がありました。

「明日はあなたにリゴレットを歌ってもらいます。明朝10時に指揮者のパオロ・カリニャーニ氏と音楽稽古をするように」

??†!☆?◎?†

・・・この時ほど、焦った事はありません。

「冗談じゃない。出来っこないでしょう。リゴレット役は、もう忘れかけているし・・今日の明日っていうのも無茶です!」

と抗議しかかりましたが、契約上どうにもなりません。夕食のとんかつ用に豚肉を切っていた家内の手も、まな板の上で震えだして、
緊張という緊張がアッという間に部屋のムードを支配してしまいました。

「どうして俺が、今、こんな大役をやらなきゃいけないんだ?!」

と、お鉢が回って来たのを喜ぶどころか逆に迷惑に思い始め、

「あしたの夜は雨になってくれ〜」

と、天気予報に釘付けとなる始末(注:野外公演は雨天中止が慣例)。一睡も出来ず、生にんにくを大量に食べて公演に臨みました。
舞台上に、にんにく臭を撒き散らしながら

「呪いじゃ!」「ジルダ!ジルダ!」

と、それこそ必死の形相でリゴレットを演じました。
「臭いわね」とも何とも言わず、“ぶっつけ本番リゴレット”をリードしてくれたジルダ役のジュシー・デヴィヌーさんは、本当に優しい人でした。

臭くとも無事に終わったローマの後、ビルバオでは8日間の微熱続きで歌い、
花粉症に悩まされ消炎剤を飲みながら歌った苦悶のヴェネツィア、宴会続きでアンダルシア地方の超甘口ワインに酔いながら演じたマラガ等々。
当時、背伸びしてやった役の所為か、スッタモンダが多かったです。思い出深いアテネでは“ギロ”を食べながら奮闘しました。

この時も代役で呼ばれ、2日後から練習に参加するようにとの事で、大慌てで荷物を用意して(家内が全部やりましたです)、
仕事中の家内をミラノに残し、ひとりアテネへと旅立ちました。劇場専用のホテルで旅の疲れを癒していると、

「どうしました?もう練習は始まっていますよ。」と劇場から電話。

「まだ時間があるから、ゴロゴロしていよう。」

とグ〜タラしていたのが間抜けでした。ミラノ-アテネに1時間の時差があるのをてっきり忘れていたのです。
ダッシュで劇場に飛び込み、指揮者のアルマンド・ガット氏に遅刻を詫びつつ音楽稽古をなんとか済ませました。

見知らぬ外国の街を一人で過ごすのに慣れていなかった当時、レストラン通いは気が重くて、ファースト・フードの“ギロ”が気に入りました。
焼肉・トマト・生玉葱に“ギリシャor トルコ風ソース?”をナーンで巻いたもので、家内が遅れて到着する迄の10日余り、食べどうしとなりました。
葱の所為かローマ並みに臭かったようですが、何故か疲れ知らずで中1日4連唱のリゴレットも何のそのでした(ギロに感謝)。

舞台美術・衣装が豪華絢爛で、またメイクがとても上手かったのを憶えています。
アテネの舞台関係者は、古典ギリシャ劇のエスプリをいまだに受け継いでいるのかとも思ってしまいました(手元に写真が無いのが悔やまれます)。

思えばあれから丸5年間、リゴレットをやっていません。
今は、この役を“塩漬け”しておくのが適当かと考えています。今回のカリアリでのカバー歌手の仕事で、何かまた発見出来れば最高に嬉しいです。

余談ですが、映画「ゴッドファーザーPARTIII」のクライマックスに、コッポラ監督がリゴレットのフィナーレをイメージしていた事を聞きました。

娘の亡骸を抱くアル・パチーノの壮絶な演技は、正にヴェルディの傑作を彷彿とさせてくれます。

2002年7月吉日


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