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フランツ・リストに寄せて

野谷恵ピアノリサイタル
〜 オール・リスト・プログラム 〜
解説文

第568回札幌市民劇場として開催された、
野谷恵ピアノリサイタル「オール・リスト・プログラム」の時、
パンフレットに掲載した自作の伝記風曲目解説です。
文中赤色の文字が演奏曲目です。
演奏順とはやや異なります。


7歳と11ヶ月で初めて人前で演奏して以来、天才の名を欲しいままにしたリストでしたが、
16歳の時に父を亡くし、その若さで、それ以後、母と二人での生活の経済的負担や
責任の一切を背負って生きることになります。

既に作曲家として幾つかの作品も出版してはいましたが、ピアニストとして演奏活動もしながら、
生活の為に毎日多くの弟子を教えなくてはなりませんでした。

そんな生活の中で17歳の時出合った弟子、同い年のサン=クリック伯爵令嬢カロリーヌとの
初恋は彼の心の支えでしたが、その若く純粋な恋は、彼女の父の手によって無残にも
引き裂かれます。
絶望のあまり、その後しばらくの間、彼は演奏活動さえできなくなり、「リストは死んだ」という噂が
巷に流れた程でした。

「魅力ある素朴な少年で、自然で、気取ったところがない」と評された10代のリストは、
こうした人生経験を経て次第に大人になり、華やかな演奏活動を展開しながら、
やがて全ヨーロッパのピアノの王者となっていくのですが、同時に、少年時代の
辛さや寂しさを取り戻そうとでもするかのように、数多くの恋愛沙汰を引き起こしていきます。

アデーレ・ラ・プレリュード伯爵夫人、マリー・ダグー伯爵夫人、マリー・デュプレシス(デュマの
椿姫のモデル)、ローラ・モンテス、マリー・プレイエル、ザクセン大公夫人マリア・パブローブナ、
そして12年間も共に暮らし、結婚も考えた、カロリーネ・ザイン・ウ”ィトゲンシュタイン侯爵夫人、
・・・・・・・等々。

身分も年齢も様々に異なる、これら多くの女性達に、彼は何を求めたのでしょうか・・・・。

1833年にリストに出会い、その2年後に夫を捨て、5年近くを彼と暮らした
マリー・ダグー伯爵夫人からは、確かに、彼は多くのものを得たようです。

7曲からなる<巡礼の年 第2年 イタリア>は、夫人と共に旅行したイタリアで接した
美術作品や、夫人の愛したペトラルカの詩などに霊感を得て書かれています。
”ダンテを読んで”も、やはり夫人の愛読書であったダンテの「神曲」の読後感を
音楽にしたもので、彼の中期の傑作とされる大曲です。

ダグー伯夫人との間には3人の子供が生まれますが、彼女の嫉妬が原因で諍いが
絶えなくなり、1839年に別れます。
伝記によっては彼女のことを、大変に嫉妬深く、リストの芸術活動まで妨げたと、
悪い女のように書いてあるものもあります。
「嫉妬させるようなこと」を散々したリストも悪いと、私は思うのですが・・・・・・・。

<巡礼の年>に限らず、リストの鋭敏な感性は、美術や文学作品から得た刺激を、
音楽作品として昇華させることが多かったようです。

”愛の夢 第3番”も、フライリヒラートの詩に魅力を感じたリストが、
まず歌曲として1845年に作曲し、後にピアノ独奏用に編曲したものです。
これほどまでに甘く美しい旋律を紡ぎながら、彼はどんな”愛の夢”を見ていたのでしょうか。



 「ピアノの魔術師」とまで言われ、その華麗な超絶技巧で聴衆を圧倒したリストですが、
生来の天才に加えて、大変な努力もしたようです。
20代の初め頃、友人に書き送った手紙の中には、「毎日4、5時間も、3度、6度、オクターブ、
トレモロ、連打、カデンツア等の練習をしている。」とあります。

そうした技巧のための努力が、練習曲の作曲につながったのでしょう。10代の頃出版された
<12の練習曲>をはじめ、<超絶技巧練習曲>、<パガニーニ大練習曲>など、
非常に高度な技巧を要する練習曲の傑作を、彼は数多く残しています。

<2つの演奏会用練習曲>は、50代前半の作品ですが、単に技巧的な難曲というだけでは
なく、”森のささやき””小人の踊り”といった表題の描写の中に、後に印象派へと発展して
いく、音楽史の流れを予感させるものを秘めています。

”忘れられたロマンス”は晩年の作品です。1880年に室内楽曲として書かれ、後にピアノ独
奏用に編曲されました。練習曲の華麗なピアニズムとは対照的に、穏やかな安らぎに満ちた、
美しい曲です。

目の眩むほど膨大な量のリストの作品群の中で、編曲物は重要な位置を占めています。
自作の編曲にとどまらず、彼は36人もの作曲家の様々な作品をピアノ曲に編曲しました。

ベートーベンの交響曲全9曲の編曲などは、ピアノの可能性を一気に拡大したもので、
近年改めて注目を浴び、演奏される機会も増えているようです。

その他、モーツァルト、シューベルト、シューマン、ショパン、ベルリオーズ等も取り上げて
いますが今回は、それらの中から、バッハのパイプオルガン曲と、ワーグナーのオペラアリアを
編曲したものを選びました。

”オルガンの為のプレリュードとフーガ イ短調”は、バッハの同名の6曲の作品集の
第1番にあたるものです。石造りの教会に響き渡る、パイプオルガンの壮大な響きのイメージを
ピアノに生かした傑作です。

ワグナー”エルザの夢”では、大変自由な編曲がなされています。
省略が多く、いわば、”エルザの夢”のエキスを取り出したような形になっているのですが、
それによって、僅か3ページの短い作品ながら、音楽的には非常に密度の高い作品に
なっています。

このアリアを含む、歌劇<ローエングリン>の初演を指揮したのは、リストでした。
他にも、リストはワーグナーのオペラを何度も指揮し、また、それらのオペラから、
15曲ものピアノ曲を編み出しています。

指揮者としてのリストの力量もまた、素晴らしかったようです。
ワーグナーは、<タンホイザー>でのリストの指揮に感動し「リストは、私が
この作品において言おうとしたことを、完璧に表現した。」と書き残しています。

前述のダグー伯夫人との3人の子のうち、2人を早くに亡くしたリストは、唯一人残った
次女コジマを溺愛しましたが、彼女は指揮者ハンス・フォン・ビューローに嫁いだ後、
父と2歳しか違わないワーグナーの元に走り、夫を捨てます。
その、整った美しい横顔ばかりでなく、情熱的な気性までも、コジマは父から
譲り受けていたようです。



1869年、58歳の時に、かねてからの念願であった僧籍を得て以来、晩年のリストは、
常に黒の僧衣で姿を現しました。
そして、若き日、その演奏振りで貴婦人達を熱狂させ時には失神までさせた華やかさは
少しづつ影をひそめ、次第に宗教と哲学の中に静かに自分を見出していくようになります。

”哀しみのゴンドラ 第2番”は、1882年の作品(1883年改定)ですが、最晩年のリストの
作品によく見られるように、技巧的華やかさからは遠い、非常に内面的な作品です。
遺体を乗せたゴンドラが波の上を遠ざかっていく情景を描いたといわれ、
一種の葬送ともいえるものです。

<詩的にして宗教的なる調べ>第7曲の ”葬送”には、2つの意味があります。
1853年出版のこの曲には、タイトルの下に副題のように、(1849年10月)と
書き添えられています。

この日付は、オーストリアに対するハンガリー革命後の苛酷な報復によって、
リストの友人を含む、多くの勇士達が命を落とした時期です。
そして、やはり友人であったショパンが結核のために亡くなったのも、
同じ1849年10月でした。曲の後半の、戦場を思わせる勇壮な音楽の中に、
ショパンの”英雄ポロネーズに似た左手のオクターブの動きが現れます。
雄々しく戦い、散っていった勇士達を悼むに相応しく、あくまで男性的な、劇的な葬送曲です。

半世紀以上もの長きにわたって、ヨーロッパの楽壇に君臨し続けたフランツ・リストは、
1886年7月31日、バイロイトにて、肺炎により、その波乱に満ちた生涯を閉じました。
彼の偉業を偲んでバイロイトに立てられた、立派な廟のある墓は、第二次世界大戦の
爆撃によって破壊され、後には、ただ、彼の名を刻んだ一枚の石版だけが、
ひっそりと、置かれているということです。


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