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教えるということ

ピアノの先生という仕事を、長い間、自分なりに真剣に続けてきて、
今、思うことをを少しづつ書いていきます。
(2002年)

1)昔、教えることは嫌いでした。

2)生徒達がくれたチャンス

3)奇跡の後始末

      ★4)教育実習 2008年更新


1)昔、教えることは嫌いでした。

生徒が一人でも増えた時、増えたことそのものよりずっと嬉しいのは、
レッスン内容を喜んでもらえることです。

「そんな事、全然、考えたこともなかった!」などという感じで、
教える事のひとつひとつを、顔を輝かせて感激して聞いてもらえると、
不思議なもので、さらにインスピレーションが湧いたりします。


実は、20代前半くらいの頃は、教えることが大嫌いでした。
  「自分は演奏する為にピアノをやってきたのであって、
   教える為にやってきたわけじゃない。」
なんていう恐ろしいことを、頭の中で考えているような先生でした。

今は、全く反対。教える為に、今までの人生があったかな、とまで思ったりします。
勉強を重ねれば重ねるほど、教えることが面白くなり、好きになってきました。


もちろん、生徒は一人一人、性格も考え方も違い、だから吸収力も違いますが、
(吸収力は、進度や知識よりも、感じ方、考え方が大きく左右します。)
でも、どういう経歴を辿ってきた、どういうキャラクターの人でも、
必ず、それまでより良くできる、というのは、今は確信を持っています。


「世界的演奏家ではなくても・・」のページで何度も書いたことですが、
私は、学歴は地元の学校ですし、大学講師などの肩書きもありません。

ピアニストとしての演奏歴なら経歴に書けますが、
先生としての立場では、要するに、いわゆる普通の「街のピアノの先生」です。

でも、肩書きよりもずっと価値のあることを目指して、
生徒をより大きく伸ばすことを目指して、頑張っていきます。





2)生徒達がくれたチャンス

私は音大の先生ではありません。が、だからこそ、大変大きな勉強のチャンスを、
生徒達がくれたと考えています。

普通、順調に進んできて、何の問題もなく音大へ行くような子は、多くは、
小さい頃から指導を受けた先生の紹介で、受験する音大の先生の所へ行きます。
(それまでの先生にそのまま指導を受け続ける場合ももちろんありますが。)

私の所へ来た受験生達は、あちこちの先生方に「音大は無理」と言われながら諦めきれず、
高2や高3になってから、知人の紹介など色々なツテで来た子達がほとんどでした。

ツェルニー40番に入っていれば「上等」。せいぜい30番とかソナチネ程度。

なかには、30番にも入っていなくて、インヴェンションも弾いたことがないとか、
歌謡曲を遊びで弾いていたとか、
極端な例では、ピアノを買って習い始めて約1年間で受験という子が2人・・・。
(ピアノ科ではなく、声楽や管弦の副科としてですが・・・)


とにかく、それで、ベートーヴェンのソナタを受験に合格するレベルに仕上げるというのは
並や大抵の大変さではありません。常識で考えれば間に合うはずがありません。

驚異的に具体的な、技術のコツを教えて下さった複数の外国人の先生方からの知識をもってしても、
それでも尚、大変なことでした。

でも、そこで合格するかどうかで、その子の将来が全く違ったものになる・・と思うと、
やはり、必死でした。その、本当に必死なレッスンの中で、沢山の発見があり、
私自身が教える力を伸ばしてもらったような気がします。


ピアノを始めて約1年の子が、東京の有名音大の声楽科で、ピアノは合格点を取りました。
(肝心の声楽の点が足りず浪人しましたが・・・・。)

もう一人の、ピアノを始めて1年の子も、別の科目で落ちましたが、ピアノは合格点でした。
そういった受験生達は本当に私を鍛えてくれました。

その事が、後年、ツェルニーは40番、バッハはインヴェンションを一応・・というレベルの人が、
リストの大曲を弾いて、楽器店の講師採用試験に合格する等といった、
もっと上の「奇跡」を起こすための、勉強をするチャンスを、授けてくれたのです。

勉強・・・知識・・・・方法を知ることは、多分、出発点として大事。

でも、ひょっとすると、もっと大事なのは、諦めないことなのかもしれません。






3)奇跡の後始末

なんとか受験には合格しても、ツェルニー30番や40番のレベルでは、音大に入った後が大変です。
否応なく定期試験は来ますし、普段の授業やレッスンでも、ついていくのは凄く大変です。

それでも、(大きくなってから)本当に、自分が望んだことなので、ほとんどの子は、入ってからも
頑張ってくれました。

ただ、時には、入った後、ついていく為の努力が出来なくなってしまう子もいました。

不十分な実力で入試だけ通過しても、後が心配ですから、合格した音大の先生に、
電話で詳しく事情を説明し、他の子よりお手数をかけると思うけれどよろしくと
大抵はお話しておきます。

それでも、たまには・・・・とてもご迷惑をかけてしまう子もいました。

合格したことに安心して、周囲とはレベルが違うことを忘れて、
みんなと一緒に遊んだり、バイトしたりで、練習はせず・・・・・。

で、試験の1週間前になっても、暗譜どころか弾けてもいない、なんていう調子で。

私の古くからの友人である音大での先生に、大変なご迷惑をかけ、
私が平謝り(笑)・・・・・・そんなこともありました。
(でも、その子も、ご迷惑はかけつつも、何とか短大は無事卒業し、
当時はまだ入りやすかった楽器店講師を数年勤めて、すでに遠くへお嫁に行きました・・・(^_^;))

他にも色々心配し、何度もお説教した子もいましたが・・・
でも、なんとか皆、ちゃんと卒業して、
ピアノの先生という夢をかなえるところまで、頑張ってくれました。

奇跡には、後始末が必要なようです・・・・。(やれやれ・・(^^;))





4)教育実習  〜〜実習で見つけたもの〜〜

「はじめて、本当にやりたいと思うこと見つけた!」と、教育実習から帰って来た音大生が言いました。
教育実習は何種類もあって、今回は養護学校でした。

重度の障害のある子の多い学校で、子供達の世話をして、これをやりたいと、仕事にしたいと、
はっきり思ったのだそうです。

「本当に楽しかったんですよ。すっごい充実してて・・・。」と、ほんとうに嬉しそうな、
幸せそうな顔で言いました。

教育実習といっても、知的障害の子で、暴れる子も多くて、「教える」などという状態ではなく、
「世話をする」のですが、一生懸命世話をしても、喜んでくれるどころか、
「もう、頭は叩かれるし、蹴られるし、こういうとこ引掻かれるし・・」と笑いながら、腕を見せました。

「ご飯食べさせても、ボロボロこぼすし・・・・・。だけど、可愛いと思った。」

「学校終わったら、すぐ隣の施設に帰るんですけど、夜は一人一人の部屋に、先生が鍵かけて歩くんですよ。
抜け出さないように。ふらふら出て行って、どこかで交通事故にあったら困るし。」

「でも、な〜んにも分からないのに、音楽聞いたらはしゃぐんですよ!!
すっごい嬉しそうな顔したり、踊ったり・・。」

「実習終わってからすぐ、その学校の運動会があって、行ったんですよ。もう、あたしのこと、
覚えてないっていうか、分かってなかったと思う。でも、楽しかった。」

「あたしの服、あげたんですよ。その子たちが住んでる施設、お金あんまりないみたいで、
子供達、ひどい服着てたから・・。」

「(重度の子供達が夜生活している)施設の方は、スッゴイ大変そうで、できないと思ったけど、
学校の方の先生になりたい!学校の先生になるのは、やっぱりすごい大変だから、
6年はかかるって言われたんですよ。採用されるまで。でも、6年待っても、やりたい!」


私は、途中からは、泣きながら彼女の話を聞いていました。( これを書いていても泣けます。)

本当に幸せそうに、生き生きと話す彼女が、養護学校で見つけてきたものは、「愛」なのでしょうね。

どんなに一生懸命面倒をみても、喜んでくれるわけでも、懐いてくれるわけでもなく、それどころか、
「叩かれるし、蹴られるし、引掻かれるし・・・・(笑)」
「あたしのこと、覚えてない、っていうか、分かってなかったと思う。」

そういう子供達を、「だけど、可愛いと思った。」という彼女が、養護学校の先生になれたら・・・
子供達にとってどんなに幸せだろうと思いました。

もちろん、短期間の実習ではなく、長期間、実際に仕事としてするのは非常に大変な事ですから、
考えが甘いと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、本当に、ただ純粋に、
彼女の夢がかなってほしいとだけ、心から思いました。


彼女は、常識では無理なレベル(ツェルニーは30番もやっていなくて、ソナチネをちょっと・・)で、
高2の冬に私の所へ来て、高3の秋の入試まで、本当に大変な思いをして(超・手取り足取り)
音大に合格したのですが、学校の音楽の先生になるのは(音大側の教職課程の方針変更等もあり)
非常に難しいという事になり、でも、ピアノの先生になるのは、どうも自分には合わないように思えてきて・・・・
将来どうしようか、迷っていました。

そして、「はじめて」という言葉を使ったほど、本当に強く、心からやりたい事を、ついに見つけたのです。

「音大に入る」という、最初の夢・・・・。
先生としての私の役割は、その夢をかなえることでした。
夢は、かないました。

入学後も、ずっとレッスンに来ていますが、随分上手になってくれました。
でも、だからといって、必ずしも音楽の道に進まなくても、いいと思うのです。

人生の一過程で、彼女が夢をひとつかなえることが出来た。そのお役に立てて、幸せでした。

今また、次の夢を見つけて、それをかなえる時には、もう私の役割はないけれど、
ただ、心から、祈ります。

望んだ道が、拓かれますように!!


★追記★

このエッセイを書いた6年後、夢がかないました。
一度、一般就職をした後で、2008年春、彼女は道北の中学校へ、
特別支援学級(身体的知的不自由さをもった子供のクラス)の先生として、
赴任することになりました。

心からおめでとう。。がんばってね!!





   ☆追記の追記☆ 〜 障害と障がい 〜

「 障害 」ということばを「 障がい 」と表記する動きがあるようですが、
それに拘るなら「 障がい 」の「 」 という漢字も
「 霊障 」などという言葉に使われるように悪い意味を持っていますから、
「 しょうがい 」と書かなくてはならないと思います。

さらに、「 しょうがい 」と書いても、頭の中では
「 生涯 」や「 傷害 」ではなく「 障害 」と変換するのですから、あまり意味ないと思います。

それなら「 障害 」も「 障がい 」も「 しょうがい 」もやめて、「 不自由 」にするとか・・・。

でも、もっと大事なのは、体が「 自由 」に動く我々の、心の問題なのではないかと思います。

言葉に拘るより、「 不自由 」な人々や病気の人々に対して、
どう接するかとか、何か出来る事はないかと考える姿勢の方が、
漢字で書くか、ひらがなで書くか、などという議論より、ずっと大事な事のように思います。






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