音楽つれづれ・2
1)百聞と一見
2)年齢制限
3)ムジーク・クライス
(2002〜2004年のエッセイ、2014年に追記したものもあり。)
1)百聞と一見
百聞は一見にしかず・・・と良く言いますが、ピアノのレッスンの場合は、
百聞も一見も、両方必要と、私は考えています。
言葉でシッカリ説明した上で、「こういう風に」とか「これくらい」とか動きを見せなくては分からない。
言葉だけでは、動きを理解するのは非常に難しく、誤解があると返ってマイナスになったりします。
一方、ただ「こういう風に」と見せるだけでは、どういうポイントを見ればよいのか、
何がどう違ってそういう風に弾けるのか、なかなか理解できません。
ロマン派の大作曲家の一人は、「弟子の前で、天使のように素晴らしく弾いて見せた後、
”こういう風に弾きなさい。”と言った。」というレッスン風景が伝記に残っています。
それで、言われたとおりに、”こういう風に”弾けるなら、上手なピアニストの演奏を目の前で
見ているだけで、そういう風にひける・・・ということになってしまいます。
演奏法や練習法の本があったり、ネット上にも色々な情報があります。
でも、文章だけでは分かり難いし、写真がついていても動きはないので、
やはり完全には分かり難いと、ピアノの先生をしている門下生にも言いました。
長い間、きちんと教えてくれる先生にめぐり会えない状態で、難曲を苦労して弾いてきたある門下生は、
色々な本等から何とか情報を得ようと苦心もしたのですが、結局、
「難しい曲を練習すると腕が痛くなる弾き方」を体に染み込ませ、気の毒な状態で頑張っていました。
そういう「苦労」の期間があると、具体的な指導の価値を深く分かって(感じて)くれますから、
レッスンの効果がかなり早く現れます。
ほんの数回のレッスンで、あるいはたった1回で、姿勢や弾き方ををがらりと変えられる人もいます。
ごく短期間でも、凄く頑張った時期のある人は分かってくれ易いです。
中学の時、少々バイエルをかじった程度で、高3で本格的に始め、
音楽専門学校へ進んだ人がいます。
入ってから難しい曲を次々弾かされ、弾けなくて、学校へ通いながら、毎日5〜6時間練習し、
夏休みは実家へも帰らず、毎日10時間以上練習したそうです。
それでも、体のあちこちが痛くなるばかりで、うまく弾けるようにはならなかった・・・。
半年以上そういう努力をした後、私と出会った時には、もう、ボロボロに疲れていたようです。
クセが酷かったので、すぐには直りませんでしたが、弾き方が直った後、
彼の進歩は目覚しいものでした。
卒業近くなってからの、メシアンの「黒つぐみ」の伴奏や、
卒業後のリストのメフィストワルツ「」での進歩は忘れられません。
その後、リストのバラード2番でコンクールで賞を取りました。
数年前、ある世界的な教授の札幌での公開レッスンで、受講者も非常に難しい曲を高いレベルで
弾いているのに、体の使い方が直せなかった実例を見ました。
2台並べたピアノの向こう側で、上行する音型を、先生が何度も「こういう風に」と
弾いて見せているのですが、至近距離で見ているにもかかわらず、
受講者は何がどう違うのか分からず、何度やり直しても前と同じに弾くのです。
問題は、ひじの関節の使い方の違いでした。(かなり影響の大きいテクニックです。)
でも、受講者は普段、体の使い方の指導は受けていないようで、とうとう分からず終いでした。
(補足しますが、うまく伝わらなかったのは、この1点だけで、後は受講者もよく吸収し、
大変素晴らしい公開レッスンでした。)
やはり一見だけでは理解は難しいと思います。でも、詳しい解説の後の一見は、非常に効果的です。
先日、東京からレッスンを受けにいらした皆さんの前で、体の使い方のレクチュアをした後、演奏しました。
その時、皆さんに、立って私の周囲を歩き廻って、色々な角度から見て下さい、と言いました。
これが面白かったようです(笑)。
腕、手首、指はもちろん、重心と「足」の事(特に左足)に、随分驚かれました。
翌日、がらりと体の使い方の変わった方がいて、感動でした。
私自身、直接のレッスンの中での、沢山の「百聞と一見」で、長い年月をかけて学んだ事を、
さらに分析したり、教える経験を通して確認したり、編集したり、伝える言葉を工夫したりして、
今の方法をまとめ上げてきました。
まとめる・・というより現在も進化し続けていますが、その進化を助けてくれたのは門下生です。
特に、「不可能を可能にした」門下生達。
いくら効果のあることを、いくら一生懸命伝えても、それを受け取ってくれなければ、
効果を上げることは出来ませんでした。
素直に私のレッスンを取り入れてくれた生徒達の姿勢も大きな要因だったと思います。
常識では無理なレベルで、それでも諦めず頑張って音大に合格点を取ったり、
音楽教室の講師採用試験に受かったり、
長いブランクを越えて、若い頃は弾けなかったレベルの曲を弾き、
音大を出て間もない若い人達を抑えて、コンクールで全国大会に選ばれた方も・・・。
そういった生徒達の共通点は、年齢やキャリアに関係なく、「素直な吸収力」でした。
「才能」とは、、「集中力」と「感受性」の別名と思っていますが、もうひとつ、
学ぶ時の「素直な吸収力」(感じ方、考え方、姿勢)も、大切な才能ではないかと、
大きく伸びた生徒達を見ていると思わざるを得ません。
逆に吸収に邪魔なのは過剰な自意識、自尊心です。
ただ、これが全くないという人はいないので、どうコントロールして、「素直な吸収力」を
身につけるかが勝負ですね。
素直とは、盲目的に従う(言う事を聞かされている感覚)ということではありません。
そういう感覚でいると、勘違いが起こりやすかったりします。
逆に、意味や価値の分かる専門家や、アマチュアでもある程度勉強をしてきた人や
真剣に取り組んで苦労してきた人の方が、吸収力を持ちやすいようです。
そういう吸収力、姿勢を持ち続ければ、数年もたたずに全くの別人という程、変わります。
私自身もそういった姿勢や感覚を持ち続け、
機会がある度に勉強を続けたいと思っています。
(2002年に書いたエッセイを2004年10月に改稿しました。)
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2)年齢制限
私の同年代の友人で、「世界的演奏家」になった人がいます。
彼女は、私と同じ学校を卒業しましたが、28歳の時一念発起してヨーロッパへ渡り、
32歳で国際コンクールで優勝し、ヨーロッパ各地で演奏活動するようになりました。
札幌で演奏活動していた頃はメゾだったのに、ヨーロッパで一から勉強し直したら、
ソプラノになってしまった(!)というくらいの変わり方をしました。
そして、札幌では30歳が年齢制限の某オーディションに不合格だったのに、32歳で国際コンクールに優勝!
良い勉強ができれば、正しい知識が得られれば、努力次第で年齢に関係なく驚くほど進歩することができます。
でも、日本では、30過ぎたらそれまでより下手になる、みたいな認識が強過ぎますよね。
30、40過ぎてから頑張っても、若い子ほど進歩するわけがないという思い込みが、強過ぎると思います。
別のヨーロッパ在住の友人によると、向こうでは違うそうです。
30過ぎても40過ぎても勉強を続ける人はちっとも珍しくないし、トシを取ったら、もう進歩しないなんて、
誰も思っていない・・・。
「世界的演奏家ではなくても・・」のページでも触れていますが、色々なオーディションやコンクールの
「年齢制限」は、本当に考え直して頂ければと思います。
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3)ムジーク・クライス
長い間の演奏活動を蔭で支えてくれたのは、非公開の研究会でした。
20代半ばくらいの頃、友人に誘われて小樽へ通い、「コンセール・セリユ」という、
小樽のヤマハの先生を中心とした会に混ぜて頂いて、毎月の非公開の研究会
(お客さんを入れない演奏会のようなもの)と、年1回の公開の演奏会をしていました。
その形がとてもよいと思ったので、20代後半頃、札幌で演奏活動を活発にしている
友人知人に声をかけ、「ムジーク・クライス」(ドイツ語で音楽仲間)を創立しました。
ヤマハの当時の担当の方や店長さんが、私達の意欲を応援して下さり、
一方ならぬご協力を頂きました。
皆、リサイタルを経験していたり、留学帰りでやる気は満々でも、経済的には非常に大変でした。
(帰国直後の人など、ご近所の小さな子にバイエルを教えて6000円のお月謝をもらうのが
月収の総てとか・・・)
そういう中で、ヤマハサロン(当時ヤマハの1Fにあり、現在はありません)や、
ヤマハ第2ホール(現アヴェニューホール)を無料で研究の場として提供して頂き、
何度も非公開の研究会をさせて頂きました。
公開の演奏会開催の折にも、大変お世話になりました。今でも心から感謝しています。
ヤマハサロンはやがてなくなり、皆、少しづつ忙しくなっていき、第2ホールより、
夜遅くまで(当時は24時間)使用可能だったGクレフホールに拠点が移っていきました。
そういった変遷はあっても、この研究会は、なんと十数年以上もの長きにわたって、
毎月、多い時は月数回も開催されたのです。
(多分200回以上は軽くやっています。私は全部出席し、弾かなかったのは2回くらいです。)
そういった非公開の場だからこそ・・・という勉強(冒険?)は沢山できました。
公開の演奏会では、大体、ソリストとしてステージに立っていましたが、
「絶対に必要な勉強」と思っていましたので、管弦、声楽の友人達の伴奏も経験させてもらいました。
また、メンバーがそれぞれ友人を連れてきて、色々な人とも知り合いました。
(色々な考え方の人がいるなと、思いました。そういう意味でも勉強になりました。)
ムジーク・クライスのメンバーはその後、イタリア、アメリカ、ドイツ等、外国へ行った人が多く、
バークレー卒業後、先生と一緒にアメリカで小さな学校を開いたり、外交官になってドイツへ赴任したり、
世界的オペラ歌手の奥様として公私共にご主人を支えたり・・・・.
なにしろ、皆さん、大物になりました。
私は、ずっと日本にいますが、常識では無理な子を音大に入れたり、
常識では無理な実力から楽器店講師に合格させたり、
・・・・地味な仕事ではあっても、
地元で、音楽を勉強したい若い人達のお役に立つことができているわけで、
こういう人生も、いいのではないか・・・・と思ったりします。。
ムジーク・クライスの研究会そのものは、現在は非常に少人数で、
しかも、それぞれが多忙で、集まりはしなくなりましたが、
会の名前は、リサイタルの後援団体名として、現在も使われ続けています。
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上記は、2002〜3年頃のエッセイです。
(このエッセイの後、50代でコンクールを受けまくって人生が変わりました。
世界へ出ていく大物にはなってませんが(^^;)、ても、
東京や大阪で必要としてくださる皆さんにレッスンして喜んで頂いていて、
充実した遅咲き人生を楽しんでいます。 (2014年春追記。)
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